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vol.3「帰ってきたパイオニア」阿見AC職員 植村 真維さん


写真中央 紺とピンクの上着が植村真維

vol.3 植村 真維 -MAI UEMURA-

プロフィール

1991年生まれ

栃木県 宇都宮市 出身

阿見第一小 (全国小学生陸上競技交流大会 80mH第5位入賞)

竹来中 (100mH 全日本中学出場)

土浦湖北高 (100mHインターハイ出場)

東京女子体育大学

4歳の時、母の実家がある茨城県阿見町へ越してくる

小学5年生の時、友人のお母さんに誘われて阿見アスリートクラブへ入会

高校卒業するまでの8年間クラブで指導を受ける

大学卒業後短距離コーチとして阿見アスリートクラブへ戻ってくる

今年、日本人の前に19年もの間立ちはだかっていた100m9秒台の壁が桐生祥秀選手(東洋大)によって破られ、日本中が喚起に沸いたのは記憶に新しい。

誰もがなしえなかったことをするのは、いつだって想像以上に大変で、だからこそ価値がある。今でこそ全国で活躍する選手を輩出する阿見アスリートクラブにも、地域のマラソン大会や茨城県大会を目標にトレーニングしていた時代がある。そんな時代に突如現れ全国大会の扉を開き続けたパイオニア。今は阿見ACで中学生に短距離を指導する「植村真維」その人である。

クラブとの出会い

放課後は毎日鬼ごっこやドッヂボールをしているような積極的な女の子でした。

仲のいい似たような女子と一緒に、男の子が遊んでいる中に混ざるんです。

男子相手なら手加減しなくていいので楽しくて(笑)

その中にいた柳沢君のお母さんがクラブの理事をしていて、

「アスレッコに入らない?」と誘ってくれたことがきっかけで

小学5年生の時に阿見ACへ入会しました。

その頃から水泳の元国体選手だったというお母さん譲りの運動神経で、

学校でも目立った存在だったという。

その頃のクラブは、上下関係がなくて敬語は禁止、

年上も年下もみんな友達の様に一緒に走っていました。

練習に行くというよりは友達に会いに行くのが楽しみという感覚で通っていました。

小学6年生の時にハードルで県大会で優勝して、全国大会に進出したんですが、

その頃は「全国大会って何?」くらいの感じでした。

その全国小学生陸上競技交流大会では80mHで5位に入賞する。

ただ一生懸命走ったら全国で5位になってた。と言った方が正しいかな。

それに向けて努力していたわけでもなかったので、あんまりよく覚えてないんです。(笑)

彼女の口から出てくるのは「楽しいから」という言葉。

彼女にとっての「楽しいかけっこ」が

成長するにつれてどう変化していくのかを聞いてみたくなった。

小学校時代

 阿見ACのパイオニア 

――楠康夫理事長が植村真維さんの事を「阿見ACのパイオニア」と言われてましたが、パイオニアという自覚やプレッシャーはありましたか?

監督(楠康夫理事長)は、私の事をパイオニアと言いますけど、

パイオニアだという意識はないんです。

パイオニアというなら、私じゃなくて、2学年下の「ミー」(久貝瑞稀※1)や「ナリ」(楠康成※2)なんじゃないかな。

――同じ種目だった久貝瑞稀さんとはライバル?

ミーとライバルという意識はなかったです。

私が高校3年生の時にインターハイ出場権をかけて戦ったことがあるんですけど、

その時もライバルというよりは、そばにいると心強くて、一緒に頑張ろう!そう思える存在でした。

彼女の活躍が私にとってプレッシャーだったことはありません。

それよりは種目は違ったけど、クラブの同級生だった千晶(古江千晶※3)の方がライバルだと意識していた気がします。練習の時もいつも競っていたし。

ただ、1学年上に奈保美ちゃん(坂本奈保美※4)っていう足の速い先輩がいたんですけど、

クラブは上下関係がないのがいいところなのに、

練習の時に前を走るなおみちゃんを遠慮して抜けない時があったりして…。

私はチキンなんです。

――チキンというと?

そうですね。

色んなところでチキンだったなぁと思います。

例えば、小学生の時にハードルで全国入賞したのに、

私が中学でハードルを始めたのは2年生の秋からなんです。

もしかしたら朱実コーチ(楠朱美※5)はもう少し早くハードルにも挑戦させたかったんじゃないかと思うんですけど、小学生と中学生ではハードルの高さが違って、

高さへの恐怖でハードルが跳べなくなったこともありました。

ハードルが跳べないなら短距離をすればいいと、200mをやっていたこともあるんですが、

試合は緊張でスターティングブロックの前足がどっちだったかわからなくなってしまうようなこともしばしばありました。

やっとハードルが跳べるようになった中学3年生の時ですら、

ウォーミングアップ中に緊張してハードルをひっかけてしまって、

動揺してレースを迎えることも多かった。

クラブのハードル選手の中だと、久貝瑞稀が転んでる印象が強いと思うんですけど、

彼女は大一番でひっかけて転ぶからその印象が強いだけであって、

転んだ回数で言ったら多分私の方が多いと思います。

とにかくチキンでした。

心を強く持てたら、もう少し上に行けたんじゃないかなと思うことはあります。

でも、その経験によって、なんでチキンだったのかを考えられたのは私にとってはいい経験でした。

今私がクラブで教えている子供たちは、技術に対して貪欲な子が多いです。

みんなどうしたら良くなるかをちゃんと考えているし、それを欲してる。

すごいなぁと感心します。

私が中学生だった頃にはそれが足りなかった。

言われたからやる。そんな風に受け身だったと思うんです。

だから本番でどうしたらいいかわからなくなって、てんぱってしまう。

それがチキンの原因。

自分で考えて自分でやる。それができるようになってきたのは、高校生になってからでした。

関東中学 写真下段 右端

 クラブと部活動の両立 

高校は、土浦湖北へ進学する。

クラブと部活を両立するという道を選んだ。

初めて自分で決めたこと。それはチキンだった彼女を大きく変える挑戦だった。

その頃、湖北は練習メニューを生徒が考えていました。

質より量という感じで、鬼のように走りこみました。

きついメニューも自分達で考えた分、責任と意欲をもってこなせる。上下関係もきっちりしている。

それまでクラブでやっていた私にとっては真逆と言ってもいい環境でした。

でも私には、自分でクラブと部活を両立すると決めたという意地がありました。

週二回クラブに通うことを、湖北の先輩や同級生の前で説明し理解してもらうことから始め、

部活の時は挨拶や準備を率先してやりました。

もし結果が出せなければ、両方やろうとしたからダメになったと思われてしまう。

それは絶対に嫌でした。

今は高校進学を機に、クラブをやめて部活動で練習をする選択をする子も毎年何人かいます。

ただ、あの頃の私には、クラブをやめるという選択肢はまるでありませんでした。

クラブは私の居場所だったし、クラブでやることが私にとっての自信とプライドでした。

両立は口で言うほど簡単なことではなかった、

ただそれ以上に自信を成長させることになった。と彼女は話す。

大変だったけど、それでも続けることが出来たのは、充実感があったからだと思います。

クラブはあたたかくて和気あいあいとして和む。

その中で高い技術を教えてもらえるという実感がありました。

教えてもらう喜びを強く感じていたのはあの頃が一番だったかな。

部活は、みんな自分で考えて強くなろうとしている意識が強くて、雰囲気もパキパキしていた。

それがとても刺激になりました。

その両方があったから、受け身だった私は成長することができたと思うんです。

そして高校最後の年、ランキング13位で臨んだ北関東大会でギリギリ6番に滑り込みました。

(北関東大会6位までがインターハイへの出場権を獲得する)

インターハイ出場を決めたあの瞬間のことは今でも忘れられません。

高校時代

 苦労人の壁の超え方 

「全国大会の扉を開いたパイオニア」というよりは、

「クラブと部活の両立という道を切り開いたパイオニア」といった方がしっくりくる。

ひたむきに、真面目に、そして素直に人や物事に対峙できる彼女だからこそ出来たことなのだろう。

そんな、どんな壁も前向きに乗り越えてきた彼女だが、

大学時代にはなかなかの苦労人だったそうだ。

そんな話もあっけらかんと話してくれるところが、また彼女のまっすぐさを感じさせる。

親には、進学せずに働いてほしいと言われたのですが、

無理を言って東京女子体育大学へ進学させてもらいました。

まだ陸上競技を続けたかったし、将来的には教師になるために教員免許をとりたかったんです。

そのかわり仕送りはなし。

仕方なく奨学金とアルバイトで生計を立てていました。

陸上だけやっていればいいというわけにはいかず、休みなしでバイトをする生活。

だんだん疲労がたまっていき、大学2年の時に足底部分断裂を起こしてしまいました。

1年くらい走れない日が続いて、治療費を稼ぐためにまたバイトをする。

前向きに頑張っているつもりでしたが、正直きつかったです。

そんな時、大学のマネージャーという仕事を任されることになりました。

選手や陸上部の運営を支える仕事は、思いのほか苦ではなくて、

その時に、私は人を支えることが好きなのだと気づきました。

マネージャーという仕事は責任もあって大変なんですが、それを楽しんでいる自分がいたんです。

その話を聞いて、これまで、「どんな壁も乗り越えてきた」「新しい扉を開いてきた」と表現してきたが、それは少し違っていたことに気づかされた。

はじめから彼女は「私はパイオニアでも何でもない」と言っていた通りなのだ。

壁や扉は彼女にとっては壁でも扉でもなく、ただ直面した出来事に他ならない。

その出来事に、彼女らしく誠実に向き合うことで、いつだってそれを自分の力に変えてきたのだ。

それがパイオニアと言われる彼女の強さなのだと改めて感じることが出来た。

バイトもマネージャーも続けながら、トレーニングも継続していました。

ケガでずっと走れなかったんですけど、大学4年生の時には100mも12秒1くらいで走れるようにまでなっていました。

調子がいい中で、最後のハードルの試合に出たんです。

レースの途中で、高校の北関東大会で感じた時と同じ感覚で走っている自分に気づきました。

ハードルを越えながら、どんどん加速していく感覚がわかる。

私は練習より試合の中で感覚をつかむことが多いんですが、この時はまさにそれでした。

私は幸せ者なんです。

これで最後かもしれない。というレースの時に必ず掴んだ!という感覚になれる。

気持ちよく引退できたのもきっとそのせいだと思います。

大学時代 写真前列右から3番目

 植村真維にとってのかけっこ 

クラブで育ち、部活とクラブの両立や、選手生命に関わるケガも経験しながら、

指導者として阿見アスリートクラブへ戻ってきた彼女。

彼女にとって阿見アスリートクラブとはいったいなんなのだろう。

私は、私を育ててくれた監督や朱実コーチに恩返しがしたいと思ってクラブへ戻ってきました。

私がクラブにいた頃は、まだそんなに人数も多くなかったし、

全国大会へ行くのが当たり前のような時代でもなくて。

クラブに強くなりに来ているというよりは、遊びに来ているという感覚だったんです。

今はクラブが大きくなって、会員も増えて、実績も上がって、

それはとっても嬉しいことだなんだけど、実績はただの結果だと思うんです。

本当に大切なことは、自分自身とちゃんと向き合うこと。

勝ちにこだわったり、高すぎる目標をたてたり、

その気持ちはとてもよくわかるけど、でもそれでは楽しくなくなってしまうんじゃないかと私は思うんです。

私の時代にはなかったんですけど、今クラブには自己新賞というものがあって。

試合で自己ベストを更新するとみんなの前で表彰されるんです。

もうすでに30回以上自己ベストを更新している子もいたりして。

自己ベスト賞を5回だすぞ!!って意気込んでいる子がいたり…。

私はそれでいいんだよ!!って思うんです。

私も陸上競技をしていて、つらいことや苦しいこともありました。

でもどんな状況でも、陸上競技を嫌いになりたくない。と思っていました。

私にとって陸上競技と出会った阿見アスリートクラブは、仲間やコーチに会えるのが楽しくて、いっぱい笑って心休まる。そんな場所だったんです。

陸上を好きでいたかったのは、そんな楽しい思い出を大切にしたかったからだと思う。

だから私が教えている子供たちにも

もちろん結果を出させてあげたいと思ってはいるんですけど、

楽しいだけでもいいし

陸上が好きなだけでもいい

上下関係がなくて楽なだけでもいい

それぞれが自分なりの楽しいをもっていてくれる。

その形がクラブだと思うからそれが残ってくれていると

卒業生としては嬉しいなと思います。

阿見ACコーチ陣と

 指導者としての想い 

指導者になった今、思うことがあるという。

理論理屈派ではなく感覚派。

だからなおさら試合で学ぶことが多かったという彼女の選手時代。

そんな経験を経て彼女が今選手たちに伝えたいこと。

今私が教えている子たちは、とても一生懸命、技術や理論を聞いてきてくれます。

「今の動きはどうでしたか?」「どうしたらもっと速くできますか?」そんな質問がバンバン飛んでくる。

自分がそうじゃなかった分、偉いなと感心することも多い。

聞いてくれるのは意欲の表れ。コーチとしては嬉しい限りなんですけど。

でも、技術が全てじゃない。

教えすぎてもいけない。

そう思って、それをどう子供たちに伝えたらいいのか、今は試行錯誤しています。

一呼吸おいて、自分で考えて、自分で感じたことをもっと大切にしてほしい。

アップして体が動かなかったら、ダッシュを入れなさい。

書いてあるメニュー通りにやるな!自分で考えなさい!なんて注意することもしばしば。

試合本番、レーンには一人きりですから、

その時に彼らが迷わない指導を心がけています。

阿見ACでコーチとして指導中

 植村真維の夢 

最後にそんな彼女の今の「目標と夢」を聞いてみた。

目標は、クラブで働かせていただいているうちは、

笑顔の絶えない素敵なおっきーーなクラブにしていけるように少しでも力になりたいです。

魅力あるコーチ、楽しく本気の現場!を常に意識してがんばります!

選手は皆いい子たちばかりで、逆に助けられていることが多いのですが (笑)

素敵な子供たち、恩師の監督、朱実コーチ…阿見アスリートクラブに恩返しをすることが、

今の私の一番の目標です!

夢は、やはり女である以上(笑)

素敵な家庭を持ち、毎日平和でHAPPYな暮らしをしていく…ですかね?

これに関しては先が見えませんが…。(笑)

今は未来は見えなくとも、彼女ならその優しさと謙虚さと逞しさで、なんでも乗り越えていってしまうのだろう。阿見アスリートクラブのパイオニア(本人に自覚はないようだが)が開く次の扉はいったいどんな扉なのか…彼女のこれからがとても楽しみである。

※1久貝瑞稀…植村真維の2学年下のハードラー高校時代IH国体で準優勝、世界ジュニア日本代表などの実績をもつ

※2楠康成…植村真維の2学年下の800・1500m選手 日本ユース・ジュニアで二度日本一に輝き、現在も現役で日本のトップで活躍する

※3古江千晶(現在は立花姓)…植村真維の同学年 200・400m選手 北関東大会400m7位などの実績をもつ、現在は植村真維と共に阿見ACで職員を務め小学生コースを担当する

※4坂本奈保美…植村真維の1学年先輩 中学時代200mで茨城県チャンピオンだった

※5楠朱実…阿見アスリートクラブのコーチ 中高時代の植村真維を指導する

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