vol.9「もう一度、あの舞台へ」佐藤慧太郎さん
写真 月刊陸上競技提供
vol.9 佐藤慧太郎 -KEITARO SATO-
プロフィール
1991年2月23日生まれ 27歳
岩手県出身
東京都練馬区立北町小学校
青森市立堤小学校(5年生から)
青森市立浦町中学校
青森県立青森北高校
筑波大学
【種目】 400m
【自己ベスト】100m:10秒70 200m:21秒21 400m:46秒56
【歴史・実績】
中学3年:全日本中学200m優勝 ジュニアオリンピック200m2位
高校1年:国体少年B200m4位
高校2年:インターハイ400m優勝・200m4位 国体少年A400m優勝 日本ジュニア400m2位
高校3年:インターハイ400m優勝 国体少年A400m優勝 日本ジュニア400m優勝
大学1年:全日本インカレ400m3位
大学4年:全日本インカレ400m7位
阿見アスリートクラブで個人種目での日本チャンピオンは5名いる。
久貝瑞稀選手(ジュニアオリンピック100mH優勝)、楠康成選手(日本ユース・日本ジュニア1500m優勝)、志鎌秀昭選手(全日本実業団・全日本インカレ走幅跳優勝)、小林航央選手(現:筑波大学/全日本中学800m優勝)、大野晃祥選手(現:東洋大学/全日本中学200m優勝)、その中でも群を抜いた優勝回数を誇る男が、今回のインタビューの相手、佐藤慧太郎選手である。
日本一になったのは6回。中学3年の全日本中学男子200mで優勝、高校2年ではインターハイ・国体の400m二冠、高校3年では、インターハイ・国体・日本ジュニアの高校三冠を達成している。
ちなみに男子400mで高校二冠&二連覇を達成しているのは、オリンピックの常連で日本記録保持者の金丸祐三選手と佐藤慧太郎選手の二人だけである。
今は阿見アスリートクラブの高校コース短距離を指導している佐藤選手。会員の方からすると、選手と言うよりはコーチというイメージが先行するのかもしれない。
クラブや子供たち、指導への想いも聞いてみたいところだが、今回はこれだけの実績を誇る佐藤選手の強さの秘密を紐解くことで、彼に指導を受ける現役選手たちの飛躍のヒントになることを期待して、彼の学生時代の話を中心にインタビューしていきたい。
駆け上がった日本一への階段
佐藤選手の陸上競技との出会いは、小学6年生の時。学校対抗の陸上競技会の100mで準優勝したところからはじまる。中学生になると迷わず陸上部に入部し、陸上競技の世界に本格的に足を踏み入れた。
初めての市大会では100mで6位だった。県大会では7位入賞、秋の県新人では1年生ながら200mで優勝、中学2年生の時は200mで東北大会4位、試合に出るたび強くなる。とんとん拍子で始まった競技人生、破竹の勢いで彼は同世代のトップまで上り詰めていく。
佐藤選手が育ったのは青森県。年に数回しか雪の降らない関東の人間からすると雪国の選手がどんなトレーニングをして、どうやって強くなるのかはとても興味深い。
単刀直入に「全中優勝のわけは?」そう質問すると「練習を頑張りました。」なんともシンプルな回答が返ってくる。彼の頑張っていた練習というのは、クロスカントリースキーのことだった。
「顧問の先生がスキーの強化部長だったので、夏は陸上、冬はクロスカントリースキーの試合に出ていました。クロカンは全身運動だし、ずっと乳酸が出続けているような過酷な種目だったので、とてもいい練習でした。とにかく体力がついた、中学2年生になって顧問の先生が変わっても、先生に懇願してクロカンの練習と試合(といっても市内の小さな大会でしたが)への参加は継続させてもらっていました。体力トレーニングにもなる上に、冬にも試合があるというのはモチベーションの維持にも一役かっていたのです。」
しかし日本一の理由は、クロスカントリースキーだけではない。
実は中学3年生の時、全国優勝した200mではなく100mを中心に試合に出場していたという佐藤選手。100mにこだわった理由はライバルの存在にあったという。
当時、福島県には中学2年生で全国優勝した田嶋和也選手がいた。彼は小学生の頃から速く、同級生の中でも目立った存在だったという。彼に勝ちたいという気持ちから、東北中学も田嶋選手と同じ100mに出場し敗れている。
「田嶋選手とは中学、高校、大人になっても競っていました。速い人がいた方が楽しいので、彼と勝負したいというのもモチベーションの一つでした。負けるのは悔しいけどそれが勝負の醍醐味ですし、試合はそれが楽しいですから。」
クロスカントリースキーとライバルの存在が佐藤選手を強くしていった。
そして中学3年生の全日本中学男子200mで優勝、こうしてあっという間に頂点に上り詰めた。
インターハイ二連覇という快挙
高校生になった佐藤選手は、青森北高校へ進学する、自転車で片道一時間以上の道のりを毎日全力でこいで通ったという。
「自分で設定タイムを作って、とにかく自転車をとばしてました。田んぼ路で風が吹いたりするときついんですが、練習が終わった夏の夜は蛍の光がとてもきれいないい通学路でした。」
雪が降ると電車通学になるのだが、3時間に1本という電車を逃すと大変なことになるので、ギリギリまで部活をやってダッシュで電車に飛び乗っていたという。「それもまたいい練習の一つでした。」
話を聞けば聞くほど、私が持つ佐藤選手のイメージに合点がいった。つらい練習ほど楽しそう、自分をいじめるのが好きそう、それが私の中の佐藤選手である。
通学ですらトレーニングの一つにしてしまう。限られた練習時間と練習環境の中で強くなるためには、あらゆる工夫とトレーニングへの高い意識が必須だったのだろう。
佐藤選手の練習に対する姿勢にはいつも尊敬の念を抱いていたが、雪国青森で彼が自然と身に着けたものなのだと想像できた。そしてそれは彼を日本一へと牽引した大きな要因なのだろうと。
全中優勝の実力者は、高校1年の国体で200m4位、高校2年のインターハイで人生2度目の日本一を獲得する。
「そのインターハイは台風の中で大荒れの大会だったんです。準決勝ではレースの途中でテントがとばされてきて再レースになったり、競技時間の大幅な変更で夜の10時近くまでレースが続いたり、周りの選手にもそんな状況の中で疲弊が見えた。優勝候補が不調だったこともありましたし、あの大会で勝てたのは悪天候が僕に味方してくれたからだと思います。」そう謙遜するが、2位に0.6秒という大差をつけての圧勝だった。
そんな彼にアクシデントが起こる、高校3年生の春、ダッシュの反動で背中の肉離れをおこしてしまう。立てないほどひどい怪我だった。ギリギリで間に合わせた県大会はベストから2秒以上遅いタイムでなんとか通過した。
「インターハイへの不安はありましたが、負ける気はしませんでした。」
その言葉にデジャブを感じた。日本一になったことのある選手がよく口にする「勝てる気がしていた発言」これは本当に陸上競技の七不思議だと思う。
優勝者以外の選手からしたら、「え?走る前からわかってたの?じゃあ言っとけよ!こっちは無駄にドキドキしてるのに!」と突っ込みたくなるのだが(実際突っ込んだこともある)、それだけ調子が良かったということなのだろうか。
勝者はレースが始まる前に、自分の勝利を確信する説。これは今後も検証していきたい陸上競技のミステリーである。実際佐藤選手が予感した通りに、彼は400mでインターハイ二連覇を成し遂げる。
想像力が自分自身を強くする
佐藤選手の場合、勝てるという自信の裏付けの一つに練習でのイメージ作りがあるという。
「昔からずっと練習で走るときには常にレースを想像して走っています。」レース展開をイメージして、1本1本を大事にしていた。佐藤選手はそれを戦略練習という。佐藤選手曰く400mはその戦略を生かせるところが楽しいのだという。
「その戦略で失敗したりすることはないの?例えば戦略で前半抑えすぎて後半差し切れなくて不完全燃焼になったりとか。」と素朴な疑問をぶつけてみる。「失敗はありますよ。でも、レースを考えて走ることは、緊張感を高めることにもなるんで僕には必要な作業です。僕緊張しないと走れないんですよね。」
「高校生の時に、東北選手権で当時日本選手権で優勝していた佐藤光浩選手と走ったことがあるんですけど、あの時はビビりまくって緊張して、前半いつもよりとばして入ったら勝っちゃったんです。あの時に僕は緊張した方が走れるんだって思ったのが始まりです。今はわざと吐きそうになるくらい精神的に自分を追い込んでからスタートラインに立つようにしています。」
吐きそうなほど自分にプレッシャーをかけるのはやりすぎなのでは?と思いもするが、それくらいやらないと自分はダメなのだと話す。
「先日の東日本実業団はあんまり緊張できなくてダメでした。高校生の県大会からのはしごだったので、思うように自分の気持ちを切り替えられなくて。なんとか自分を追い込もうとしたんですけど、そんな時もあります。」
試合前に緊張して自滅してしまう。という選手は、ぜひ彼の思考回路に学ぶことをお勧めしたい。緊張感を楽しむとはよく聞く話だが、緊張しないと走れないからあえて緊張しにいく。という逆転の発想は面白い。
佐藤選手と話していて感じるのは、その悟ったような落ち着きである。自分という人間をよく見つめ、理解しているからこそ醸し出せる雰囲気なのだろう。実際このインタビューで日本一になる裏技を聞き出すことを狙っていた筆者だったが、裏技というよりはそういった彼の人となりこそが、彼が強くなった要因なのだろうと納得するに至っている。
あえてそれを裏技とするなら、自分を制するものはゲームを制す。が近いかもしれない。自分をよく知ること、そして何をしたら自分が全力で頑張れるかを考え実践し続けること。佐藤選手がやってきたことは実にシンプルだった。
現役生活を続ける理由
全日本中学優勝、インターハイ・国体二連覇という偉業を成し遂げた佐藤選手だが、大学へ進学してからは長く苦しんだという。全日本インカレで入賞はするも、ポスト金丸祐三として世界を期待された存在からするとそれは納得のいく結果ではなかったのだろう。
「大学時代は腐っていた時期もありました。練習はやっているだけで意識が低かった。
大学3年になって短距離ブロック長に抜擢され、トレーニングメニューを自分が考えなければならない立場になりました。そこで初めて、これまで何も考えてこなかった自分に気づきました。
ファミレスで8時間くらい仲間たちとメニューを考えたりするようになって、そこからまた競技に身が入るようになりました。実際大学4年の時には46秒台で何度も走っていて、ベストこそ出ていませんが、強くなっていた実感はありました。」
しかし、ケガが付きまとい結局大きな実績を上げるには至らず、競技を続けたいが所属先がみつからない状況に追い込まれる。
「そんなときに、阿見アスリートクラブのコーチの話をいただいて、阿見アスリートクラブにいくことになりました。」
そうして彼は選手とコーチ二足のわらじを履くことになった。
大学4年で競技を引退するという道は考えなかった。
しかし阿見アスリートクラブへ入ってからも記録には恵まれていない佐藤選手、それでも競技を諦められない理由が彼にはある。
陸上競技を始めてからずっと、彼にはライバルと意識する存在がいた。
「種目は違うんですが岸本鷹幸くんの存在が僕のモチベーションなんです。」
同じ青森県出身で同学年の岸本選手は2012年ロンドンオリンピック400mハードル日本代表、2011年大邱世界選手権、2013年モスクワ世界選手権のセミファイナリストである。
「彼は400mハードルで、僕は400mだったので、直接対決することはありませんでしたが、互いの結果をずっと競ってきました。仲もよかったので、彼が頑張ってるなら自分も頑張りたいという思いが強いんです。彼とは高校時代ずっと同じところに立ってきました。僕の中ではライバルなので、彼一人だけ世界に行かせるのが悔しい。憧れでもあり、今は少しコンプレックスでもあるのかもしれません。」
「だから最後くらい同じ舞台に立ちたい。その思いが捨てきれず今も走り続けています。もう一度日本選手権に出場してあのステージで走りたい。これが競技者としての今の僕の目標です。」
初めて口にする、日本一だったことへの想い。ケガが重なり思うように走れない日々が続く中でそれでも懸命に走り続ける彼にそんなエピソードが隠されていたのかと思うと泣けてくる。勝負は来年の日本選手権だという。ライバルと同じ舞台に立つその夢を心の底から応援したい。
指導者としての目標
最後になるが現在阿見アスリートクラブの高校短距離の指導に当たっている佐藤選手。
特に男子選手たちからは「憧れと尊敬の慧太郎コーチ」だという話を聞いたことがある。
優しくストイック、背中で語るタイプの彼ならそう慕われるのも頷ける。
「実は僕は子供の扱いが苦手で…。指導なんてできるのかと不安もありました。でもクラブの選手たちはみんな一生懸命で、一緒にやっていてとても楽しいんです。」
そういって指導する選手たちのエピソードを楽しそうに語ってくれた。
「指導者としての目標は?」
そう聞くと、少し考えた後、
「プレッシャーに感じてほしくないので、言ってもいいのかなぁ…」
そう前置きした割にはびっくりするくらい自信たっぷりに言い切ってみせた。
「インターハイで優勝させます。100も200も400も。」
きっと佐藤選手がインターハイで勝った時もこんな感じで勝利を予感していたのだろう。
その予感は決意に似たものなのかもしれないと思う。
今度は自分自身にではなく、愛弟子たちへの決意である。
インタビュー・記事:荒川万里絵