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vol.7「阿見ACの産みの親」阿見AC副理事長 香取正樹コーチ


vol.7 香取 正樹 -MASAKI KATORI-

プロフィール

1951年生まれ 66歳

新潟県出身

新潟市立関屋中学校

新潟市立工業高校機械科

中京大

専門種目:100m

自己ベスト:100m10秒6

実績・歴史:

中学1年:陸上競技を始める

大学4年:東海インカレ100m優勝

社会人1年:茨城県立竜ケ崎第一高校へ赴任

2001年:中学校教員を務める傍ら、阿見アスリートクラブのコーチとなる

阿見アスリートクラブの真の生みの親といえば、香取正樹先生に他ならない。

なぜなら阿見アスリートクラブ理事長楠康夫と朱実夫妻。

この二人に陸上競技を教えたのは香取正樹先生その人なのだから。

阿見アスリートクラブの短距離コーチとしてスポーツ少年団アスレッコクラブ創設当初から、たくさんの選手を指導し続けている香取先生。まだ陸上競技場が土のグラウンドだった時代、100mを10秒6で駆け抜けた生粋のスプリンターだった。

「香取先生がいてくれれば、それだけで俺は安心なんだ。」

楠康夫理事長は香取先生の存在をそう語る。

2人の出会いは今から45年ほど前に遡るわけだが、まずはもっと昔、香取先生のルーツからはじめていくとする。

オリンピック選手になりたい幽霊部員

小学4年生の時、父に見せてもらったベルリンオリンピックの冊子。

「今度このオリンピックが東京に来るんだよ」それが陸上競技との出会いだった。

1964年東京でオリンピックが開催される。日本はオリンピックムード一色。

香取少年も例外ではなかった。小学6年生の文集には「オリンピック選手になりたい。」そう書いたそうだ。

小学生の頃からオリンピックを意識するような子供だったということは、さぞ足も速かったのだろうと想像したが、「そうでもないよ。学校で1番ではなかったね。」と言う。

中学生になった香取少年は、文集に書いた夢を叶えるために陸上競技部に入部。

そして見事に幽霊部員となる。

「部活動の盛んな学校でね、陸上部も強かった。夏休みもしっかり練習があって。俺はなんで休みに学校に行かなきゃいけないんだ。って思ってたんだよね。だから長期休みになると部活にはいかない、そんな不真面目な生徒だったよ。」と笑う。

その話になんとなく香取先生らしいなと笑ってしまう。

ありのままのというか、自分に正直な人という印象の香取先生、きっと子供の頃からそれは変わらないのだろう。

そんな調子で中学二年生になっても休日限定の幽霊部員は続いていた。

現在の中学生は、通信陸上と県総体の二つの大会で標準記録を突破した者が全日本中学陸上に出場できるシステムだが、当時は全国大会の開催はなかった。そのかわりに通信陸上、(当時は放送陸上といった)が全国大会の役割を持っており、全都道府県で同じ日に開催し、その記録を集計して全国で何位かを決めていたのだ。

香取先生の中学はその放送陸上の男子400mリレーで全国6位、しかもその記録は日本中学新記録という結果を出した。陸上部2人、野球部とバスケ部から借りてきた足の速い2人という即席チームが達成した快挙。残念ながらその4人の中に香取少年はいない。

なるほど、すると目の前でそれを見て悔しくて火が付いたのか!と想像したが、幽霊部員を甘く見てはいけない。

「悔しくないよ!すげーなー。と思ったくらいで。でも3年生の時にそのリレーメンバーと800mリレーを走るしかなくなって。そのあたりから少しは頑張るようになったと思うよ。」

「でも、最後の放送陸上の直前に、新潟が集中豪雨の被害を受けて、競技場がヘリコプター基地になってしまって大会は延期。自分たちの記録は参考記録扱いになったんだ。100mで県大会3位だったエースが、この悔しさを海にぶつけようって言いだして、みんなで海に行って大声で叫んだんだ。俺は悔しい気持ちより、海に向かって叫ぶ方が恥ずかしくて…。」

切ない思い出話も半世紀すぎれば酒の肴である。

生意気な少年時代

高校は地元の工業高校へ進学、陸上競技部に所属はしたが学校にグラウンドがなかったため、近所の小学校、自転車で1時間以上かかる大学のグラウンドに練習しに行く毎日だった。

納得のいく練習が出来ず、試合は秋からしか出ないと宣言して周囲を困らせたこともある。

生意気だったと自身は語るが、その秋には実力が開花、県大会100mで初めての3位入賞を果たす。

それと比例するように陸上競技に対する意欲も強くなっていった。

高校3年生の時には新潟県選手権で優勝するまでに実績を伸ばした。

しかし、県外の試合になると全く力が出せない。自分で自分にプレッシャーをかけて自滅するタイプだったと本人は振り返る。

高校卒業後は、地元新潟を離れ中京大学へ進学した。

希望にあふれた大学生活がこれから始まるのだと胸弾ませたのもつかの間、運悪く合宿所で相部屋になった同級背とウマが合わず布団の中だけが自分の居場所になった。

自覚はなかったがマイペースの末っ子だった香取青年は自然に行動する事でみんなに迷惑を掛けてしまうことも多かった。

いつも自分が原因で集合がかかり、先輩から説教される日々。

尊敬するインカレ200m優勝の谷本信光先輩から1時間正座で説教され、やっと部活を続ける事を認めてもらい事なきを得たこともある。

生意気な少年時代

このせいで同級生からは疎まれ、主に先輩と練習することになるのだが、これが逆に良い練習になってしまったのだという。

「一本一本が全力、とにかく食らいつくのに必死の毎日。するといつしかコーチや先生方から、お前強いなと声を掛けられる様になった。」

シーズン最後の東海新人記録会で、同級生エースとの一騎討ち。

アップの時から火花を散らし、追参でしたが10秒8で圧勝。

初めての10秒台、その時は夢見心地だったという。

そして少しずつ同級生からも認めてもらえるようになり、今となってはみんないい呑み仲間になっている。全国大会に生徒を引率するときに再会し酒を酌み交わせるのが人生の一つの楽しみでもあるのだそう。

大学2年の時には100mで10秒6の記録をたたき出し、日本選手権や国体に出場するようになる。

そして大学最後の年、茨城国体を控える茨城陸協の関山先生からスカウトを受け、教員として茨城県で走ることになり、今こうして茨城県で暮らしている。

楠少年との出会い

初めて赴任した茨城県立竜ケ崎第一高校では陸上競技部の顧問になる。

その時の1年生の中にいたのが、当時いがぐり頭だった楠康夫少年(現阿見AC理事長)である。

香取先生にとって一番印象に残っている選手こそが、楠康夫理事長その人で…と行きたいところではあるが、そうでもないらしい。

「楠は入部当時デブだったんだよ。あの身長で60㎏もあって。それなのに長距離です!って言って最初の5000mのレースで20分以上かかったんだ。本当に遅くて…でも諦めないし一生懸命練習するんだよな。それに関してはすごい奴だなと感心してたよ。だから、強くなって欲しくて、違う学校の練習にも積極的にいかせた。いつだったか5000mでBグループではあったけど組のトップで走った時には嬉しかったよ。」

それでもたくさんの思い出話を聞かせてくれた。

「楠は真面目で、卒業しても何かあるたびに手紙をくれた。箱根駅伝がおわったあと実家に帰らずにその足で家に報告しに来てくれて、一晩中飲み明かしたりもした。懐いてくれているのが嬉しかったよ。」

 それと同じころもう一人香取先生の家をよく出入りしている教え子がいた。

それが重原朱実、今阿見ACの片腕である楠朱実コーチその人である。

「あけちゃんの方が、楠よりはセンスがあったと思う。でも俺に似ていて真面目に練習しないから、はじめは走り幅跳びをやっていたんだ。でも他校との合同練習で走らされた300mの走り込みが強くて、400mの方がいいんじゃないかと思ってやらせたらすぐに開花してインターハイまであと一歩のところまで行った。でもあの頃のあけちゃんからは今のあけちゃんは想像つかないよ。あんなにやる気のなかった子が、今じゃ陸上にどっぷりはまった生活してるんだから。人生わかんないもんだよなぁ。」

そう懐かしがるが、楠夫妻から二人の恋のキューピッド(死語?)は香取先生だったと聞いたことがある。それについて尋ねてみると、「違うよ!」とばっさり否定された。

「卒業してからもよく家を訪ねてくれていたから、くっつけちゃおうと思って二人を家に呼んだことはあった。でもその時に、俺たちもう付き合ってるんですって公表されて…でもまぁ良かったよね。」

そんな縁があって、香取先生は2001年スポーツ少年団阿見アスリートクラブを立ち上げた教え子たちから懇願され、仕事の傍ら、阿見アスリートクラブの短距離コーチとして協力するようになるのである。

教師として、指導者として

 筆者も6年ほど香取先生と一緒に中高生の短距離を教えていたことがあるのだが、その時に香取先生に言われた言葉の中で印象に残っている言葉がある。

「クラブの子供たちは天使だよ。こんなに一生懸命に陸上競技に取り組んでいて、本当にそれだけで素晴らしいんだってことを忘れちゃいけない。志の高い選手を教えることは楽しいこと。俺は教えさせてもらえることに感謝してる。」

現在は竜ケ崎市内の中学校で講師をしながら陸上部の子供たちの指導にもあたっている香取先生だが、多感な中学生と対峙するのは簡単なことではないという。

「学校生活もしっかりできて、そのうえで部活動まで頑張れる子っていうのは今の時代多くはない。でも負けることや苦労することは人を成長させることに繋がるから、部活を頑張ろうという気持ちになってほしい。まずはそこから。」

自身もやんちゃだったからこそ子供たちの気持ちがわかることがある、全力で陸上競技に打ち込んだからこそ学んだこともある、その全てを教えることは難しいけれど、子供たちの未来を見据えて今何ができるだろう、そう自分に問い続けながら、香取正樹先生は、今日も競技場に立っている。

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