vol.4「跳び続けるその先に」市村脩人さん
写真:月刊陸上競技提供
vol.4 市村 脩人 -SYUTO ICHIMURA-
プロフィール
1994年生まれ
茨城県 つくば市 出身
今鹿島小
豊里中
つくば秀英高
流通経済大学
専門種目:走高跳
自己ベスト:2m10㎝
実績:
インターハイ3年連続出場(2・3年次は決勝進出)
関東インカレ2部入賞
全日本実業団5位入賞
中学3年生の9月に阿見アスリートクラブへ入会
2012年阿見アスリートクラブトップ選手育成事業対象選手に
中学・高校・大学・社会人と環境が変わる中、社会人2年目となる現在も阿見アスリートクラブでサポートを受け続ける
全日本実業団陸上競技選手権大会(2017年9/22~24)で、自身初の5位入賞を果たした市村脩人選手(阿見ACセルフサポートコース)。
本格的に陸上競技を始めたのは中学3年生の秋。
類稀なるセンスで全国大会へ出場するも、全国入賞の夢はあと一歩のところでその手のひらを何度となくすり抜けていった。
それから9年。23歳になった彼がやっと手にした全国入賞。
阿見アスリートクラブトップ選手育成事業対象選手※1として、すでに日本代表経験のある同級生、楠康成(小森コーポレーション)、久貝瑞稀(元筑波大)と共に活躍が期待された彼が見ていたのはいつだって高く跳びあがる自分自身の姿だった。
市村脩人というジャンパー
走り高跳びの選手としては、さして背が高いわけではない。
市村脩人はやわらかい雰囲気を纏ったごく普通の好青年である。
今は体操教室で子供たちに体操を教えている。
就職活動はせず、大学卒業後は阿見アスリートクラブの小学生コーチとスポーツショップのバイトを掛け持ちしながら、陸上競技を続ける道を選んだ。
「でも一人暮らしで金銭的に苦しくて…バイトの時間を増やしたら今度は練習する時間がないという本末転倒。このままじゃ生活できないと思ってハローワークに。そこで今の職場をみつけました。」
陸上選手なのに体操教えられるの?という疑問には
「僕結構器用なんで、体操もできるんですよ。」とあっけらかんと答える。
「水泳もやってたし、空手は初段、中学はサッカー部。一回見るとどう動かせばいいか感覚的にわかるんです。」
走り高跳びもその要領でやってきた。
中学生の時に駆り出された大会で160㎝、県大会180㎝、関東大会188㎝、試合の度に高く跳べた。
しかし、陸上の練習は試合の直前にマットを引っ張り出してきて何度か感覚をつかむだけ。
それで全国出場してしまうのだからなかなかの天才なのだが、本人は否定する。
「僕は天才じゃない。どちらかというと理論派です。高校の時は毎日ノートに理想の跳躍を描いていた。どう跳びたいかを明確にして、どんな動きをすればいいかを考える。勉強は苦手だけど、そーゆー作業は好きでした。」
阿見ACとの出会い
阿見アスリートクラブには中学3年生の秋に入会した。
母に「県大会でAMI ATHLETECLUBのTシャツを着ている子がたくさんいる。脩人も入ってみたら?」って勧められて。
そこで「陸上のお母さん」と慕う楠朱実コーチと出会う。
「クラブに高跳びの選手がいなかったので、コーチは一生懸命勉強してくれました。僕は自分が感じることは何でも口にしたし、コーチも客観的に感じることを話してくれた。お互いの感覚をすり合わせて理想の跳躍に近づけていくのが、研究しているみたいで楽しかった。」と話す。
二人三脚でやってきたが、高校時代の実績は北関東大会優勝。全国の舞台での入賞はなかった。
「インターハイは2年は熱中症、3年は足が攣った。緊張で食事が思うように摂れないことも多かった。いつも高く跳びたいとしか考えていないくせに、急に入賞したいと雰囲気にのまれていた。」
引きこもりの学生生活
大学でも陸上は続けたが、今度は競技場に足が向かなくなる。
「ずっと自分のペースでやってきたので、団体行動が苦痛で…。ストレスで太って記録も跳ぶたびに落ちていきました。」
その後、学校にも行かず引きこもり生活に…。
「もう大学も陸上もやめようと考えていた。でも僕自身、そんな自分が嫌で仕方なかった。」
その状態で出場した県選手権でからがら関東選手権に駒を進めることが出来た。
「こんな状態でもまだやれるんだなと思えた。周りの人たちが心配してくれていることにもやっと気づけて。みんなの期待に応えることは出来ないかもしれないけど、自分を納得させるためにもう一度跳んでみよう。と重い腰を上げました。」
今になってみると、その期間も彼にとっては必要な時間だったという。
「生活習慣を見直すことから始めたら、それが自分を見つめなおすきっかけもになりました。これからは、ゆっくりと自分を超えていこう。そう思えたことが大きい。」
復活へのジャンプ
大学3年間は棒に振ったが、4年の時に2m09に挑戦する。
社会人になってからは練習で2m10を跳んだこともあった。
「練習の質も上がったし、力がついている自信があった。ただ全日本実業団の直前にねん挫してしまって…欲は出さずに、最低2m10跳ぼうと決めて跳びました。」
初めての全国入賞、6年ぶりの自己ベストだが本人は至って冷静である。
「タイミングが合えば、2m23か25くらいはいける気がしてるんで。」
なんとも言うことが大きい。これはもうTOKYOを狙っているんですか?と聞くほかにない。
しかし、「オリンピックは考えてません。」あっさり、だが彼らしい返答だ。
「今は跳べるということに感謝するだけ。同期の久貝瑞稀さんが僕より先に引退して、あんなにすごい選手が競技を続けられないなんてとショックだったんです。僕がこうしてまだ競技を続けられることは、幸せなことなんだという自覚が社会人になって強くなりました。周りの理解があるからできること。そのことに感謝しながら、僕はただ【自分を超えることに挑戦する】だけ。それをずっと続けていたら、もしかしたら行けるのかな?いけたら…面白いですよね。」
その瞳の奥に彼の秘めた熱い思いが覗いた気がした。
※1トップ選手育成事業:阿見アスリートクラブOBがトップ選手を目指すことを応援する事業