vol.2 ①前編「平和が一番。笑顔が一番!」阿見ACクラブマネージャー 楠 朱実さん
vol.2 楠朱実 -AKEMI KUSU-
プロフィール
1959年生 57歳
茨城県 取手市(旧藤代町)出身
藤代小
藤代中(バスケットボール部)
龍ケ崎一高(400m北関東7位)
東京女子体育大学(800m全日本インカレ3位・日本選手権4×400mリレー2年連続優勝)
中学校教員(8年)
小学校教員(14年)
小学校教員時代に夫と共に阿見アスリートクラブをスタート
44歳で退職後、本格的に阿見アスリートクラブのクラブマネージャーになる
阿見アスリートクラブが練習する陸上競技場で誰よりも元気な声を響かせ、誰よりも明るい笑顔で子供たちと笑っている女性がいる。
夢育STORY第二弾を飾るのは楠朱実さん。クラブの子供たちからは「朱実コーチ」と呼ばれて親しまれる彼女は、阿見アスリートクラブの創設者楠康夫の妻であり、クラブを作ったもう一人の立役者である。
彼女が履くわらじは、2足にとどまらない。
二人の息子の母でもある。
次男の楠康成選手は阿見ACの卒業生で最も実績を掲げ今も中長距離の日本のトップで活躍している。
またその経歴は元教師。彼女が阿見ACで子供たちを育てるその根本は教育者としての考え方に基づいている。
指導者としては、ハードル、走り幅跳び、走り高跳びという専門性の高い種目を担当する。
そして共同経営責任者としてクラブの運営に重要な役割も担っている。
妻であり、母であり、教育者であり、指導者であり、共同経営責任者でもある。
5足のわらじを履きこなす朱実コーチ。彼女もまた面白い人物だ。
幼少時代
妻であり、母であり、教育者であり、指導者であり、最近流行った『共同経営責任者』でもある。この5足のわらじを履いたクラブ創設のもう一人の立役者というテーマでインタビューしたいとお願いした時、「絶対に嫌!私そーゆーの苦手だし!経営者じゃないし!」とピシッとお断りされた。
――では、なんですか?
副社長…でもないし。
あ!でも小学生の頃から副の付く役職ばっかりやってました。(笑)
副委員長でしょ、副部長でしょ、生徒会の副会長!
通知表には明るくて人気はあるが指導力なしって書かれて!今なら考えられないよねー
いつの間にか、おしゃべりのようにインタビューが始まる。
明るく気さくな朱実コーチならではである。
――小さい頃はどんな子でしたか?
家に帰ったら本ばかり読んでました。外で遊ぶことなんてほとんどなかったような…
それだけ聞くと暗い感じがするでしょ?でも学校にいる時は正反対の生徒だったんです。
廊下でほうきを使ってホッケーしたり、騎馬戦したり、とにかく元気な生徒だった。
どっちも好きなことをしてただけ。
学校では友達と楽しくわいわいしたいし。一人の時間には好きな本をじっくり読みたい。
友人にはギャップの人って言われてました。
どちらかというと、休み時間の話ばかり語ってくれた彼女ではあるが、小学生の頃は運動神経抜群だったらしい。
小1の時担任の先生にこんなに運動神経のいい子は初めて見た!と言われるくらい運動神経は良かったんです。
でも体育は得意だったけど、それより本が好きだった。
無謀にも小4の時小説を書いたんです。『まーくんのいたずら』ってゆう(笑)。
それを褒めてほしくて先生に見せたんです。
そしたら先生、それ読んでなんて言ったと思う?
「段落がない」って…!!
そこかい!って思って、がっかりしたのを覚えています(笑)。
――では、陸上競技を始めたのは中学生から?
いいえ、中学生の時はバスケットボール部でした。
でも入部理由はかっこいいから。そんなに真面目にやっていた記憶はないかな…。
中学3年の引退試合の前に、男子とふざけて雑巾取り合ってたらねん挫しちゃって、
足引きずりながら出たとか…そんなエピソードしか覚えてないな(笑)。
将来の夢も、その頃は数学の先生か漫才師でした。
とにかく面白い人に憧れてて、中学卒業したら樹木希林さんの弟子になりたいって本気で言ってましたし。
そんな私だからこそ、クラブに通ってくる子供たちの事を心から尊敬するんです!
学校終わって家に帰ってきて、そこからまたクラブの練習に出てくるんだよ?
あの頃の私なら本読んでますよ。(笑)
本当にあの子たちはすごいと、そしてそれを送迎してくる親御さんも本当にすごいと!
陸上競技との出会い
高校は竜ケ崎一高へ進学する。
そこで人生を大きく変えてくれた恩師、香取正樹先生と出会う。
中学生の時はバスケ部だったけど、駆り出されて陸上の試合にも出てたんです。
走り幅跳びで郡大会で優勝してたので目をつけられて、陸上部にスカウトされました。
私はあんまり覚えてないけど。
その時スカウトに来たのが後に結婚することになる楠康夫さん(現:阿見AC理事長)だったという。
当時のことを楠康夫理事長に聞いてみると…
香取先生に行けって言われて、スカウトに行ったんだけど、
なんだかはっきりしない返事ばかりでやる気なさそうだし、
県大会に月刊ジャイアンツもってきて読んでたり…
ふざけてる後輩だなという印象しかない。
と、運命の出会いの話が聞けると思って聞いてみたら現実はそうドラマチックではないようだった…。
運命の出会いと言えば、どちらかというと香取先生かな!
そう朱実コーチも話す。
最初の県南大会の日が家族旅行と重なって、
旅行に行くから大会には出ないと先生に話したら『試合に出てから行け』って怒られて。(笑)
走り幅跳びに出たその足で家族旅行へ行ったこともありました。
練習さぼって家に帰ろうとしたところを見つかって連れ戻されたり、
そんなふざけた私を見放すことなく育ててくれたから今があると思います。
そして高校3年生の春から始めた400mで持ち前の運動神経と持久力が花開く。
春の合宿で300m×10というメニューがあって、みんな死んでるのに私だけ元気で。
そこで400mがいいんじゃないかと言われて始めたんです。
距離に対する不安はなくて、自分でも向いてるんじゃないかな?という自信がありました。
遅すぎる種目転向だったが、県大会では6位入賞で北関東大会へ進出。北関東大会では7位で惜しくもインターハイ出場を逃した。
結果は残念だったけど、昔の私をしっていた人ならびっくりする結果だったと思う。
笑い話になるようなことばかりで努力したエピソードは全然覚えてないんだけど、自分なりに努力してはいたんだと思う。
でも勝つための努力というより、香取先生に褒めてほしくて頑張ってたんですよね。
独特な競技との向き合い方
「私は出会いに恵まれてるんです。」
胸を張って彼女はそう答える。
小学生の時から、担任の先生を嫌いだったことがない。
香取先生も、大学時代の恩師阿部先生もみんな大好きで。
だから私のモチベーションは大好きな先生に褒めてほしい!っていうところから来てたように思います。
だから努力したという記憶がないのかもしれません。努力してないというより、褒めてほしい一心だったから、それを努力と意識してなかったのかな?
アスリートに話を聞けば、感謝の話はあれど、自らの武勇伝や下積みも語りたくなるのが普通だろう。だからこそ彼女のその言葉はとても新鮮な感じがした。
普通の女の子が自分の気持ちに正直に向き合うと、実はその思いはとても自然であり、人であれば誰しもが持ちうる感情であったと初心に返らされる。
なにより、「大好きな先生に褒めてほしくて頑張っていただけ!」とさらっと言いきってしまう潔さが、指導者が手を差し伸べたくなる彼女の競技者としての魅力なのだろう。
競技者としての大学時代
高校生の時の将来の夢は体育教師だったので、教員免許を取るために東京女子体育大学の短大へ進学しました。
当時は入部希望者が100人くらいいて、仮入部期間があったんです。
仮入部の選手は100m30本みたいな練習を3週間くらいかな?させられるんですけど、
日に日に入部希望者は減っていって…。
私もつらくて、泣きながら香取先生にもう陸上やめると電話したことがありました。
『何のために大学行ったんだ!!』って怒られて踏みとどまり、なんとか入部することができました。
あっという間に大学二年になって、上の学年にも下の学年にも強い選手がいたんです。
その選手たちに食らいつこうと必死に頑張っているうちに足が速くなりました。(笑)
その頃、尊敬する阿部先生に短大から4年制への編入を進められたんです。
先生にそう言ってもらえたのが嬉しくて、すぐに編入を決意。
家族に話したら大反対されて…結局最後はお父さんが仕方ないって認めてくれましたけど、
あんまり家族には期待されてなかったんです。
母なんて私の試合は1度しか観に来たことがなかったし、しかもそれが引退試合の日本選手権で…。日本の最高峰の試合でラストレースを終えた娘に母が言った言葉が
「朱実って足遅いんだねー。」ですよ?信じられない!(笑)
話が脱線しましたけど、
4年制に編集した大学3年の全日本インカレ女子800mで生まれて初めて全国3位になることが出来ました。
それまでずっと認められたくて頑張ってきて、それでも1度も褒めてくれなかった阿部先生が「やっとお前も一流だな」って言ってくれたんです。
そこで、強い選手なら先生に褒められて、もっと高みを目指そうとするんでしょうけど、私は違いました。そこで終わり。なんだか一気に燃えるものがなくなってしまって…。
大学4年生の時もなんとかインカレで入賞はしましたけど、やっぱり大学3年生の時が一番よかったかな。
あそこで褒めちゃだめだよねー!笑
先生もあそこで自信をつけさせたかったのかもしれないけど、私はそういうタイプの選手じゃなかったから。そこがやっぱり強い選手とそうじゃない選手の違いだよね。
そう笑いながら話すが、きっと大学3年次から4年次でのスランプに葛藤もあったのだろうと想像するのは容易なことだ。
それをへりくだって笑い話に変えてしまうのがやはり朱実コーチらしい。