vol.2 ①後編「平和が一番。笑顔が一番!」阿見ACクラブマネージャー 楠 朱実さん
夢だった教師の道へ
大学を卒業して最初に赴任したのは竜ケ崎西小学校。
2年間小学校の先生をした後、竜ケ崎城南中学へ赴任しました。
クラス運営も楽しかったし、陸上部の顧問にもなれた。
当時城南中はどの部活も強くて、
私も陸上部を強くしたい!と燃えていました。
結構厳しかったと思います。
私がというよりは、それがスタンダードな時代だったんですよね。
そして結構これで細かい性格の私なので、手取り足取り構いすぎる密着指導。
もう子供たちは引退する頃にはおなか一杯になってしまうんですよね。
当時特に期待して育てた子がいて、もちろん高校でもやるもんだと思っていたら、
「中学でやり切ったので高校では陸上は続けません。先生ありがとうございました」
って手紙をもらったんですよね…。
そんな苦い思い出もあって、徐々にクラブというものを意識するようになりました。
その頃結婚して、主人ともクラブを作りたいという話はずっとしていましたし、
中学校、高校の3年間を見越して練習して、それで燃え尽きさせてしまうのが嫌だった。
中学校だけじゃない、高校だけじゃない、大人になっても頑張れる子を育てたい。
だったら、それができるのはクラブだよね…。と。
必死に教師として生徒と向き合ったからこその葛藤がそこにはあった。
母としての選択
中学教諭は8年間続けました。
その後子供の出産を機に、小学校教諭として働きながら二人の息子を育てていました。
その傍ら、細々と休みの日を使って陸上のクラブを始めたんです。
初期のメンバーの中にはもちろん息子たちもいました。
やりたいことをやっていたのだから、苦しいということはなかったんですが、
だんだんクラブの子供たちが強くなってきて、小学生の全国大会へ出場したりするようになって…。
でも学校の先生をしているから引率するのが難しかったりして、
仕事とクラブの両立が難しいなと思うことも少しずつ出てきました。
だんだんクラブの事を考えることも多くなってきて、でもお給料は学校からもらっている。
それは小学校の子供たちに失礼だという葛藤が大きくなっていました…。
少しずつ心が揺らいでいた頃にそのきっかけはやってきた。
きっかけは小さなこと。でも私の中ではとても大きな問題でした。
平日にもクラブが活動をするようになって、
学校の仕事に追われて急いで帰宅してすぐに子供たちを車に乗せて練習へ連れていかなくてはならなくて…。
ファーストフード店でセットを買って息子に食べさせました。
食卓にファーストフードが並ぶ光景を見て胸が苦しくなって…。
2人の息子がおなかをすかせているのに、母としてこんなんじゃだめだ!
そう思って教師を辞める決意をしました。
夫の脱サラ
私が仕事を辞めたころ、サラリーマンだった主人も仕事をやめてクラブ一本で食っていきたいと言うようになっていました。
お金のこととか不安がなかったわけではないけど、
「路頭に迷わせたら許さない!!」
と言ったくらいで特に反対はしませんでした。
普通なら信じられないですよね。
でも主人の話ってくどくて(笑)
朗々と説明されるから、だんだん面倒くさくなってきて、
「もういいよ!わかったよ!」
っていう、いつもの夫婦喧嘩と同じような流れで、
いつのまにか夫婦二人三脚のクラブ経営が始まってしまっていました。
まぁ楽天家なんでしょうね。
だからできちゃったのかなと思います。(笑)
そうして阿見アスリートクラブは本格的にスタートした。
笑いながら話してはいたが、
家族の人生をかけたその決断は簡単なものではなかったと容易に想像ができる。
預かる子供たちへの責任が、その決断を導いたのだということも…。
私は経営者じゃない
インタビューの冒頭に戻るが、「私は経営者じゃないし!」と言い切るのにはわけがある。
私が考えているのはクラブの事じゃないんです。
私が考えているのはクラブに来る子供たちの事。
だからね、うちのクラブは子供が笑顔じゃないとダメなんです。
というか、私が笑顔じゃない子は見たくない。
試合で勝っても笑顔じゃない子っているじゃないですか?
内容とか記録に満足できなかったのかもしれないけど、
それより試合で負けても笑ってくれている方が私はホッとするんです。
この感覚は、私がもともと勝負師じゃないからなんでしょうね。
漫才師を目指していたこともあるし、教育者だからなのかな?
真面目なのは苦手なんですよ。
ちょっとふざけて笑ってるくらいがちょうどいい。
だから、クラブの子供たちを教える時は、
いつも笑顔でいてくれるような指導をしたいと思ってやっています。
コーディネートの天才
――中学校の部活を教えていた頃と指導は変わりましたか?
指導が細かいのは変わらないかな。(笑)
いつもノートをもってそこに色々なことを書き込んで、
選手の動画とにらめっこしたり、練習計画を練ったり。
でも大きく違うのは、クラブの子供たちは中学校を卒業して高校生になっても、
ほぼすべての子が陸上を続けてるってこと。
たとえクラブを続けなくても、進学した高校の部活でちゃんと頑張ってる。
陸上競技の普及にもつながっているし、クラブをやってよかったと思える瞬間ですよね。
あの頃抱えていた葛藤はもうない。
しかし、彼女の指導力は陸上競技の普及だけにとどまらない。
クラブでは小学生の高学年と、中高生のハードル、走り幅跳び、走り高跳びを教えているが実は専門種目ではないという。
走り幅跳びは中高でやっていたけど、それ以外はほとんど経験がありません。
何もわからないから、必死になって勉強します。
それぞれの種目のスペシャリストの方々に話を伺ったり、指導を学びに行ったり。
私は適当な人間で、自信のあることは何もない。
だからこそ、他の指導者の方の方法論に感動して素直に吸収できるのかなと思います。
経験がなければ実績もない。でもだからこそ教えられることもある。
実際に指導実績を見てみると、どの種目も全国クラスの選手を複数名輩出している。
朱実コーチのことを『コーディネートの天才』と表現する楠康夫理事長はこう語る。
例えば、阿見ACでは二人のコーチが一人の選手を指導することがあります。
朱実がメインコーチとして選手を管理コーディネートし、
ハードルならハードル専門のコーチが技術指導に当たる。
でも技術を丸ごと専門コーチに任せたり、指導を分担するのではなく、
朱実が専門コーチがいないところでも同じ指導が出来るような体制を作るんです。
この方法で今まで何名もの全国入賞者が誕生してきました。
やはり技術も指導も十人十色ですから、指導者が複数名で一人の選手を育てるのは簡単なことではありません。
そこは彼女の姿勢と性格が可能にしていることだと思います。
身に着けた指導力を自分の力だと威張らないところが、他の指導者の方々に受け入れられ、吸収させてもらえる姿勢なのだと。
朱実は阿見ACの参謀
――私は経営者じゃないとおっしゃってますけど…?
インタビューをそばで聞いている楠康夫理事長にそう話を振ってみた。
でも秘書じゃないんだよなぁ。
参謀…うん、参謀だな。
その言葉でしっくりきた。
経営者としての話を聞こうとした時に朱実コーチはこう答えていた。
平和が一番。
クラブの経営も同じ。
周りと仲良くして、みんなが笑顔になれるのが大事。
だから監督(理事長)がヒートしたら私が水をかけるの。
夫婦仲良しってわけでもないけど、でも口をきかないってことはない。
クラブの事になるとどうしても熱くなる監督には、
わざと怒らせるようなことを言って爆発させてる。
そしたらそのうち怒ってるのに疲れてきて、もういいや。ってなる。
よそでヒートしないように、家の中で消火させちゃう。(笑)
私はみんなが笑っているのが好きだから。
阿見アスリートクラブが笑顔であふれているのは、アスレッコの生みの親である彼女が、いつだってその笑顔を願って行動しているからなのだと改めて感じるインタビューだった。