vol.1 ①少年時代編「生まれながらのリーダー気質」楠 康夫
この男より大きな夢を持った人間がこのクラブにいるだろうか?
夢を育てる阿見アスリートクラブのトップ楠康夫理事長。
夢育STORY第一弾を飾るのはやはり創設者であるこの男より他にないだろう。
vol.1 楠 康夫 -YASUO KUSU-
プロフィール
1958年生 58歳
福岡県北九州市生まれ
5歳のころ茨城県阿見町へ引っ越してくる
阿見小
阿見中
龍ケ崎一高 (5000m 北関東大会13位)
駒澤大学 (箱根駅伝4年連続出場 1区4位)
実業団ヤクルト (防府マラソン8位)
41歳で阿見アスリートクラブの前身アスレッコクラブをスタート
株式会社ヤクルトを47歳で退職。本格的に阿見アスリートクラブを経営する
幼少時代
男兄弟の末っ子に生まれましたが、昔から負けん気は強くていつもリーダーじゃないと気が済まないタイプの少年でした。外遊びが大好きで、学校が終われば家にランドセルを置いてすぐ仲間集めに友達の家を回る毎日、サッカー、野球、リレー、とにかく走り回っていましたね。
そんな幼少時代を過ごしていた楠少年、
しかし「足はそれほど速いわけではなかった。」という。
兄がとても運動神経がよくて、中学の頃陸上の県大会で優勝したりしてたので、楠家の期待の星は私ではなくて兄でした。そんな兄に憧れて中学校から陸上競技を始めたんです。
中学時代
陸上部に入部しても、やはり楠家では兄の活躍の陰に隠れた存在。
教育熱心な両親に二言目には「お前は素質がないんだから陸上はやめろ。陸上じゃ飯は食えない。」そう言われてばかりでした。
それもあってか、部活だけじゃなく生徒会長、部長、学級委員、とにかく長の付くものを全てやりました。走るのも好きだったんですけど、リーダーをやるのも同じくらい好きでした。
この頃から既にトップとしての素質と器があったようだ。
高校時代
そして高校生になり運命の恩師と出会う。
陸上部の顧問をしていた香取正樹先生。まだ新卒で若く兄貴的な存在の先生でした。香取先生はいつだって自分のことを肯定してくれました。兄の陰に隠れた存在だった私にお前だってやれると教えてくれたのも先生です。
そんな信頼できる香取先生の指導の下、一生懸命練習に打ち込んで高校2年生の新人戦で1500m4位に入賞しました。これが初めての私の実績です。
頑張れば頑張っただけ成績の出る陸上が楽しくて仕方ありませんでした。
そんなある日先生から衝撃的な話を聞きました。
「楠、陸上でインターハイに出てみろ。長距離だったら大学も実業団にもいけるんだ。しかも勉強で入るには難しい一流大学に!」
その言葉は陸上で飯は食えないと教えられて育った自分には希望の光でした。
帰ってすぐに両親にそのことを話すと「そんな話聞いたことがない!」と一蹴されましたが、それでも私のやる気に火が付いたのは言うまでもありません。
「だって好きなことをやって進学もできて飯も食えるなんて、それ以上楽しいことなんてないじゃないですか。」
それに、マネジャーから聞いていたんです。「香取先生が楠君を高校3年生でインターハイに連れていきたいと言ってたよ。」と。何が何でも来年は絶対にインターハイに行くんだ!自分に期待してくれている先生の思いに応えたい!
気持ちはより一層強くなりました。
インターハイへの道と進学
しかし高校最後の夏、インターハイ県予選で事件は起こる。
試合前日に高熱をだしフラフラの状態で大会に出場するも1500m7位で北関東への切符を逃してしまったんです。残す5000mで、なんとか6位入賞し北関東大会へ駒を進めたものの、心も体もボロボロでした。北関東大会も13位と全く振るわず、インターハイへの道はあっさりと途切れました。
「ああ。ここまで頑張ってきたのに、俺の陸上人生はこれで終わったんだ。」そう思いました。
試合から帰る常磐線の電車の中から見る当時の柏そごうの円形の建物がやけに悲しく見えて、いまでも常磐線の柏駅を通る時に偶然見ると思い出します。
しかしその夏、ある大学から夏の合宿に参加してみないか?という誘いがあったんです。
すっかり諦めていた自分に訪れた転機でした。
まだ陸上続けられるのか?期待にまた胸が膨らみました。「ただ結局、その合宿への参加は断ってしまいました。実は密かに憧れていた大学があったんです。」
それが当時箱根7位の駒澤大学だった。
大学2年生なのに区間2位で走った大越選手がいて、その人に憧れていたんです。あんな風になりたいと思ったのは兄貴以来、大学で陸上を続けることは半ばあきらめていたけれど、もしかしたら…。そう考えて香取先生に駒澤大学へ行きたいと打ち明けました。
しかし、香取先生は駒澤大学へのコネがなかったらしいんです。それでも必死で探してくれて、意外なところに救世主をみつけた。それが当時竜ケ崎一高で野球部の顧問をしていた持丸先生でした。
竜ヶ崎一高から駒澤大学へ野球で進学した先輩がいたこともあり、その持丸先生が駒澤大学の野球部の監督である太田先生に話をしてくれて、その太田先生から陸上部監督の森本先生へ、私が駒澤大学で走りたいと言っていると話をしてくれた…。という、まさかの野球部経由でのコネですね。(笑)
持丸先生は大変厳しい先生でしたし、普通なら私程度の実績の選手の、しかも陸上部の選手の進学の話などしてくれるわけもないのですが、とにかくまじめに練習に打ち込む姿を3年間同じグラウンドでいつも見ていてくれたそうで、「本当にまじめな奴だから!」と推薦してくれたそうです。
本当に人生誰が救ってくれるかわかりません。
そしてなんとか駒澤大学のセレクションを受けるわけですが、ここでも私はまたやらかします…。
なんと1000mで3分以上かかってしまったんです。
一度引退していたことで練習不足でしたし、自信もなかったので前半オーバーペースで突っ込んで後半失速するというなんとも情けない走りを披露しました。
せっかく口をきいてもらったのに、結局期待に応えられなかった…。と、この時も打ちひしがれましたが、まさかの合格!!
これは入学してから聞いた話ですが、セレクションで必死にゴールする私を見て、「楠は真面目そうなやつだから、もしもダメでもきっといいマネージャーになってくれるだろう。」という、奇跡のマネージャー枠での合格だったそうです。(笑)
とにかく、まじめにコツコツ一生懸命走ってきてよかった。あの時はそう思いました。