vol.1 ②陸上と仕事編「生まれながらのリーダー気質」 楠 康夫
憧れの駒澤大学で箱根駅伝
駒澤大学での毎日は想像以上に楽しかったです。
香取先生は短距離の先生だったので、本格的な長距離の指導を受けるのはこれが初めてでした。周りには高校時代歯がたたなかった全国区の選手ばかり。見るもの聞くもの感じるもの全てが新鮮でした。今までコタツで観てきた箱根駅伝を自分が走る日がやってくる。それを想像し、とにかく色んな人から色んなことを吸収して練習に打ち込みました。
そして大学1年の時に、それまで全国大会の経験もなかった私が、6区山下りに選ばれたのです。
初めての箱根駅伝、その朝は雪が降っていました。しんしんと降り積もり走路が白くなっていきます。こんな雪の中で走ったら滑って転んでしまうんじゃないだろうか?陸上部監督の森本先生に「先生、今日は雪だから中止ですか?」と思わず聞いてしまいました。この時にもう勝負はついていたんでしょうね…。
その年の箱根駅伝で時差スタートが復活して、往路で遅れをとった駒澤大学は復路一斉スタートに回ることになっていました。私を含め10チームが号砲と同時に走り出しました。そして私はその集団に100mもついていくことができなかったんです。ギョッとしました。20㎞もあるのにこんなペースで走るのか?あっという間に集団は見えなくなってしまいました。除雪されてもなお滑る雪道を一人で走りました。これが初めての箱根路です。そこで初めて、全国のスピードと自分の弱さを知りました。
駒澤大学からヤクルトへ
箱根での挫折を経て、より一層練習に打ち込みました。
1年生の時こそきつかったですが、2・3・4年と毎年箱根駅伝を走り、1区区間4位の実績も掲げました。8畳一間の4人部屋での合宿所生活も、何もかも楽しくてあっという間の4年間、実業団へいってまだ走りたい。本格的にそう思うようになった頃、ヤクルトの安田監督から声がかかりました。
箱根の走りを見てスカウトに来てくれたのです。
兄貴みたいな人柄のその人に魅力を感じました。この人についていったら絶対に面白いぞ!そう思いヤクルトで走ることを決意しました。
思った通り、安田監督は面白い方でした。
当時1日25~30㎞、多い時には70㎞という練習量に死にそうになっていた私に一言。
「楠、お前みたいな素質で死ぬ気ないの?じゃあダメだよ。」笑いながら言うのです。
真面目な私は真に受けました。「そうか死ぬ気が足りないのか。」それから死ぬ気で走りました。
またある日は「楠、お前は朝練が6時からなら5時から走れ。そのあと素知らぬ顔で6時からの朝練にも参加しろ。」「楠。お前は練習が終わってもすぐ帰るな。プラス1時間は走れ。」そう言うのです。もちろんまじめな私は真に受けて朝練前に1時間、練習後に1時間文字通り死ぬ気で走ったのでした。
安田監督は本気でやるとは思っていなかったようですが、それをするのが私という人間でした。陸上を始めた時から馬鹿が付くほど真面目に練習をすることができるということが自分の持ち味だと思ってやっていましたから。そして練習は裏切りませんでした。どんどん強くなるのが自分でもわかり、毎日練習することが楽しくて仕方ありませんでした。
でも競技力の向上が楽しかっただけではありません。
子供の頃、陸上では飯は食えないと教えられてきた私でしたから、陸上もできて、お金ももらえて、自分の成長を感じていられる。すべてがそこにある実業団での生活が夢のようだったんです。
実業団2年目には「ヤクルトの楠」と呼ばれ、これまで雲の上の存在だった一流の選手達とも肩を並べられるようになりました。インターハイに行けなかった選手が大人になってやっとその位置までたどり着いた。諦めず努力し続けた自分にとってなによりの自信になりました。28歳で引退するまでの5年間。私は夢の中で走っていたと今でも思います。
28歳で引退、そして結婚
私の中ではヤクルトに入社した時から28歳で引退する。という人生設計がありました。
なかなか選手でこういう決意をもって走っている人は珍しいかもしれません。
なぜ28歳で引退しようと思っていたのか?それはヤクルトで出世をするためです。
実業団選手として走ったあとは、ヤクルトのコーチに…そんな話もありましたが、私はその道を選びませんでした。当時、読売巨人軍の長嶋茂雄監督が解雇されたことも私の決意をより強固にした要因の一つです。スポーツでトップになってもその首を切るのはスポーツを知らない人間です。そんな環境で陸上をしたくない、だったらヤクルトのトップになるために28歳で引退して一刻も早く同期に追いつこう。そう考えていたんです。
そしてもう一つ重なった理由は結婚です。かねてよりお付き合いしていた竜ヶ崎一高時代の後輩だった重原朱実さんと家庭を持ちました。これからは一家の大黒柱として家族を養っていかなくてはならない。責任が生まれより一層出世への意欲が熱を帯びていきました。
この潔いまでの引退の決断も、子供の頃へさかのぼってみれば頷ける。いつだってリーダーシップを取りたかった少年が、陸上でトップを目指した。その次に目指すのは組織のトップだったというだけなのだから。
企業戦士としてのヤクルトでの営業時代
ヤクルトでの営業時代に、阿見アスリートクラブを経営するノウハウを身に着けることになる。
当時の上司に「若い時から経営するつもりでやれ。ただ不平不満を言うのではなく、自分が経営者だったらどうするのかを考えてから喋れ。」そう教わりました。これは私にとってとても意味のあるアドバイスでした。この教えがあったからこそ、私は常に経営者としての考え方ができたんです。
常に新しい世界に飛び込んで新しいことを吸収するのは楽しくて仕方がありません。営業で実績があがると嬉しくて、勉強する、チャレンジする、また実績があがる。その繰り返しで係長研修まで進んだのが32歳。この時には同期に追いついていました。
この頃には子宝にも恵まれ、すべてが順風満帆。気が付けば陸上競技から離れて4年が経っていました。
夫婦の会話の中で、いつか二人で子供たちに陸上を教えたいね。あなたがやるなら絶対にクラブがいいよ。そんな話をしていたこともありましたが、まだこの時は本気で考えることもない夢の話でしかありませんでした。
長男のマラソン大会
時は流れ、長男の康平が小学生になったある日、マラソン大会で活躍したいと言い出したんです。
これを言ったら本人は傷つくかもしれないけど、当時康平はそれほど足が速くなかったから、これで負けたりしたら傷つくんだろうなぁ。と父親ながらに思ってはいたんです。
そしたら妻の朱実に尻を叩かれました。「あんたが一緒に走ってやんなさいよ!なんのために実業団で走ってたの!なんとかしてやんなさい!」それで重い腰が上がりました。だったら俺が何とかするか!と。それがはじまりです。
朝早起きしたり、休みの日を使ったりして二人で特訓を始めました。もうこれは指導者と選手というよりは星飛雄馬と一徹といった感じで…。あんまりペースが遅いから後ろから押したら転んでしまったり、妻が見たら怒り出しそうなものでした。(笑)
それでも歯を食いしばって走っていたら、少しずつ形になってきて、阿見町マラソン大会の低学年の部で2位になったんです。ほっとしました。これで康平も自信になっただろう。それで終わるはずだったんですが、なかなか楽しくて、それからも二人で走ることを地味に続けていったんです。
そしたらいつの間にか康平の友達が集まってきて、気が付けば11人の子供を教えていました。そう、それが阿見アスリートクラブの前身アスレッコクラブのはじまりです。
阿見アスリートクラブのはじまり
平日は会社員、休日はアスレッコクラブの監督。二足の草鞋を履いた生活は41歳の時にはじまりました。あっという間にメンバーが増えて、11人が半年で50人になっていました。
いつのまにかアスレッコクラブの方が楽しくなっている自分に気が付きました。
経営者になりたい。陸上がやりたい。そして家族を養いたい。
そのすべてがこのクラブでやれるんじゃないか?
そう思ったとき、目の前の霧がサーっと晴れたような気分になりました。
自分が願っていたことのすべてが満たせるのはこれだ。
生涯かけてやってもいい!そう思えるのはこれしかない。
それまで19年間勤めあげたヤクルトをやめる決断をしました。
家族会議そして脱サラ
やめる決断をしたと言っても家族を養わなければならない以上勝手にやめるわけにはいきません。
両親に相談したら案の定「見通しがつくまではやめるな。」と反対されました。
小さな息子も二人いましたから、私もそこは踏ん張ろうと、我慢したんです。
仕事が終わってからクラブの練習に行き、休みの日もクラブの練習、それでも苦ではありませんでした。
ところがそんな生活を4年続けた2004年、
「クラブの規模がこんなに大きくなった以上もう片手間でやっていたらクラブに通ってくる子供たちに申し訳ない!」
そう先に言い出したのは、当時小学校の先生をしていた妻でした。先生、クラブのコーチ、そして母親。三足の草鞋を履いていたわけですから大変だったのだと思います。
「私はやめるけどあんたは今辞めたらダメ!私たちを路頭に迷わせないで!」そう言われました。どこかで妻の収入を当てにしていた自分がいたのも事実で、このことは思わぬ誤算でした。結局そのあと2年間、私は仕事を続けることになりました。
転機だったのは2006年の冬、
上司に「クラブじゃなくてそろそろ仕事にシフトしろよ。」と言われたんです。
それで心に火が付きました。もうクラブ一本で行く時だと。そして二度目の家族会議です。
小学校6年生だった次男に「父ちゃん大丈夫なの?収入ゼロなんでしょ?」と何度も聞かれました。言わされているのか定かではありませんが息子たちは口々に「ゼロゼロ」と言うんです。(笑)
「心配するな!父ちゃんの背中を見とけ!男として頑張ってる方がカッコいいだろ?」
そう啖呵を切りました。「すごい!父ちゃんカッコいい!!」それで決まりです。(笑)
年明けには辞表を提出しました。
今の話だとなんとなく勢いな感じにもとれるかもしれませんが、その頃にはもうクラブ一本でやっても家族を食わせていける自信があったんです。